【刀ミュ】双騎出陣 ❘ 春風桃李巵の観劇までに伊達政宗の生涯を予習

ミュージカル刀剣乱舞 双騎出陣「春風桃李巵」(しゅんぷうとうりのさかずき)に関係のありそうな伊達政宗について読んだ本を元に政宗の生涯を知り、観劇の予習・復習のための忘備録です。

伊達政宗(だてまさむね)

歴史に興味のない人でも誰もが一度くらいは聞いたことがあるくらいとても有名で人気のある武将ですよね。刀剣乱舞が好きな方ならほぼ全員が知っていると言っても過言ではないくらいでしょうか。

伊達政宗といえばどんな印象ですか?

渡辺謙。眼帯。三日月の兜。仙台。かっこよくてなんか強そう。

あぁ、そうだ。ゲームをやるようになってから政宗が料理好きだと知ったよ。

とまぁ、ものすごく浅い知識しかありませんでした。

人気があってイケメンで多才で…となるとなぜかそれ以上興味を持てなくなるひねくれた人間です、わたし。

ですが、刀ミュの双騎出陣のタイトルからして伊達政宗に関係のあるものがたりなのだろう、という推測からこの機会に調べてみることにしました。

「春風桃李巵」って政宗が晩年に書いた漢詩の末の部分なんだってよ。タイトルが発表されるとすぐにTwitterで解説してくれるツイートが出回って、スゲー!と思ったよな。

まず「黒い眼帯」はフィクションだったって話、オレは今回初めて知ったよ

今に伝わるエピソードの数々、本当に魅力的なものばかりで昔から多くの人を魅了してきたのも納得でした。

今回は刀剣乱舞/刀剣男士に絡めて伊達政宗の魅力について今一度おさらいしておきましょう。

参考にした本はこちら

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ビジュアルが前面に出ていますが侮れない一冊でした。マンガだけじゃなくしっかり資料や解説もついていて読み仮名もふってあり親子で楽しめます。

コチラも聞きました。↓

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公演前に書いてますので本公演の内容は知りません。史実どおりのストーリーになるとは限りませんし、誰が登場するのかも当然知りませんので、酒のつまみ程度に読んでいただけると幸いです。

目次

今さら聞けない 刀剣男士と伊達政宗の関係性を知る

あと10年早く生まれてたら天下を取れてたかもしれないと言われるほど強くて勢いのあった伊達政宗。彼はどんな人物だったのでしょう。

「春風桃李巵」(しゅんぷうとうりのさかずき)タイトルの意味とは

まずこのタイトル。取り上げポイントが渋すぎて粋すぎて、刀ミュには毎回検索ボックス行きを命じられてるみたいです。

初めに言ったように伊達政宗が晩年に残したと伝わる漢詩の一部です。もう審神者の皆さんはご存じですかね?

酔余口号 (酒に酔った後、心に思い浮かぶままに吟じた詩)

 四十年前少壮時(四十年前少壮の時)

 功名聊復自私期(功名聊(いささ)か復(ま)た自ら私に期す)

 老来不識干戈事(老来識らず干戈(かんか)の事)

 只春風抱桃李巵(只春風に桃李の巵(さかづき)を抱く)

(訳)
四十年前まだ若く血気盛んだったころには

手柄をたてて名をあげてやろうと、多少はみずからひそかに期するところがあったものだ

しかし年をとった今となっては、戦のことなどもうわからなくなった

春風の中で桃や李の花をたのしみながら酒をたのしむだけだ

引用元:日本の漢詩文より

伊達政宗の漢詩(1) 醉餘口號(酔余口号)日本の漢詩文より
仙台藩伊達家の菩提寺・瑞巌寺にて伊達政宗が晩年に述懐した漢詩「馬上少年過ぐ」に共感 白象の気まぐれコラムより

政宗は漢詩が得意だったんですね。もうこの時点で学識があって「参りました!」と頭を下げたくなる感じ。

このような詩を残して世を去るなんて今でいう「イケおじ」でしたよね、きっと。

なぜ漢詩に精通するようになったのかについては後ほど解説しますね。

鶴丸国永(つるまるくになが)が伊達家に来るまで

来歴…平安生まれ「北条家」→「織田家」→「藤森神社」→「伊達家」→「明治天皇」

刀帳説明

鶴丸国永だ。平安時代に打たれてから、主を転々としながら今まで生きてきた。
ま、それだけ人気があったってことだなあ。
……ただなあ、俺欲しさに、墓を暴いたり、神社から取り出したりは感心できないよなあ……

北条貞時が太刀欲しさに前の持ち主の墓を暴いたとか?藤森神社で神事に使われていたところをまた取り出されたとか?

たしかに驚きに満ちた道をたどってきてますね。本当は戦いも驚きもない静かな世界で生きているのも悪くないって思っているかもしれませんよね。パライソ見たあとならそう思います。

大俱利伽羅(おおくりから)と伊達政宗

来歴…鎌倉~南北朝時代の刀工「広光」の作刀。徳川家から伊達家に褒美として贈られた

刀帳説明

……大倶利伽羅だ。相州伝の広光作で、前の主は伊達政宗。名前の由来は彫られた倶利伽羅竜。
……それ以上は特に語ることはないな。何せ、無銘刀なものでね

キャラクター設定文

相州伝の広光作といわれている打刀。
伊達家伝来のため、燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、鶴丸国永とは旧知の仲。
だが、必要以上のなれ合いを嫌う孤高の存在。
不動明王の化身である俱利伽羅竜王の彫り物を持つ

今さらだけど、大倶利伽羅の「馴れ合うつもりはない」「俺一人で十分だ」というキャラクター性、自分の中でこれだ!と説明できるソースがまだあやふやです。

伊達政宗が奥州を制するまでの戦い方に関係あるんでしょうか?

人取橋の戦いは奥州の連合軍3万人対伊達軍7000人の戦いで孤高の人って感じですしね。ここでは大敗したけれどこの後力を付けていき最終的には奥州の覇者になりました。

いずれ、伊達家にきた他の刀と比べると遅く来た組です。

伊達政宗の生涯と重要人物のエピソード10選

①生まれは1567年米沢城(現・山形県)、5歳の時天然痘にかかり片目の視力を失う

8月3日生まれで、父は伊達家当主の輝宗、母は義姫。桶狭間の戦いが1560年なのでそれよりも少し後。戦国時代のだいぶ後半。

大俱利伽羅役の牧島輝くんが同じ誕生日ですね!ご縁がある…

伊達家の長男として生まれ、幼名は梵天丸(ぼんてんまる)

元々おとなしい性格。5才のときに天然痘にかかり右目の視力を失う。それで余計に引っ込み思案な性格になってしまった。しかも母親にはそっぽを向かれ弟ばかりをかわいがる、悲しい幼少期だったという。

母親からは冷遇されてたけど、父親にはちゃんと大事にされてみたい。

②虎哉宗乙(こさいそういつ)との出会い。内向的から積極的になるきっかけに

虎哉(こさい)は臨済宗妙心寺派の僧で政宗の教育係となる。彼に仏教や漢学などを教えて教養を身に付けさせた。おかげでだんだん積極的になっていく。

虎哉は政宗にこんなことも教えた。

中国の唐の時代、李克用(りこくよう)という武将がいた。彼もまた片目が不自由であったが竜のように勇敢に戦い「独眼竜」と呼ばれて敵から恐れられていたそうだよ。

この話をきっかけに政宗は李克用に憧れるようになり、努力をすれば自分も強くなれると前向きになってゆく。

賢くなって強くなったら母上も自分のこと見てくれると思ったかもね

③片倉小十郎「わたしがそなたの右目になって守りましょう」

片倉小十郎は政宗の守役兼武術の指導者だった。出会いは9才。厳しい指導ではあったけれど「若様の右目となって守る」という心強いコトバに支えられ修行に励むようになった。

おかげで体と精神は鍛えられ、後の初陣でも頼もしい働きぶりをみせ立派に成長していった。

政宗を生涯にわたって支え続けた参謀として知られている。

④政宗、13才で結婚。15才で初陣。18才で家督相続。19才で父を亡くす。

一気に行ってしまいます(笑)なんせすべてが早い!

12才に元服。13才で「愛姫(めごひめ)」と結婚。

15才で初陣。立派な戦いぶりを見せたようで父上も安心しただろうなぁ。

とはいえ、母親に可愛がられる弟の存在もあり今後の家督争いの心配もあったのか、父の輝宗が41才の時早々に退き代替わりすることになった。政宗が18才の時。

だけどその後大事件。

小手森城(おでもりじょう)の戦いで敵を皆殺しにするなど残虐なこともした政宗だった。

小手森城の大内氏に味方していた畠山義継が降伏すると見せかけて、父輝宗を人質に。

義継を見逃すか父ごと殺してしまうかという究極の選択に迫られる中「ワシごと義継を撃て!」と輝宗は言い、政宗は涙ながらに家臣に父を撃つよう命じたという。

⑤政宗23才奥州の覇者となる

その後も戦は続く。人取橋の戦いで大敗、二本松城攻防戦で攻略、大崎・郡山合戦で苦戦、摺上原(すりあげはら)の戦いで福島県の葦名(あしな)軍を倒し大勝をおさめる。

ここでようやく23才の政宗は奥州の覇者となり、120万石の領地を手に入れた

⑥母義姫による毒殺未遂事件? | 参陣遅れの対処法、白装束で現れる?

実母の義姫は弟の小次郎を伊達家当主にしたがっていたため、政宗を毒殺しようとしたとの話がある。が、その後も親しく手紙をやり取りしていたことも残っているため、毒殺未遂事件はなかったんじゃないか?との説もある。

またこの頃、豊臣秀吉からは参陣を求められていた。

しかし2か月も遅れてしまうとは秀吉もさぞ怒っているだろう、ということで政宗、なんと白装束で秀吉の前に現れたという。「死を覚悟して白装束とはおもしろいやつよ」と許された。

この頃の秀吉は天下統一まであと一歩の状態。ということは天下の中心にいる秀吉を手中にすれば天下が取れると考えていたとかいないとか…。

⑦秀吉と政宗の派手好き・茶道好き同志の関係 ❘ だて者の由来

秀吉からの呼び出し2回目。今回は白装束に黄金の磔柱(はりつけばしら)も携えていた。秀吉が派手好きなのも知っていたからである。

秀吉を苛立たせた呼び出しの原因の誤解を解き、次は朝鮮出兵を命令。この際の参陣ではド派手でカッコいい軍装で京の町民らの目を引くほど。この時から派手な格好をした者を「伊達者」というようになったとも言われる。

秀吉は政宗を茶会に招いてもてなすなどし表面上は仲良くしていたけれど、最後まで政宗を信用することはなく政治にも参加させず恐れていたそうだ。

⑧徳川家と伊達家の関係性

秀吉が死んでからは徳川家康との距離が縮まる。

関ヶ原の戦いのあと、政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)と家康の六男・松平忠輝が結婚、親戚関係となる。

当時幕府の中で大きな権力を握っていた勘定奉行・大久保長安とは意気投合。

政宗にとって勢力を拡大するための重要人物的コマを手に入れはしたが、そのもくろみは失敗に終わる。

⑨慶長遣欧使節 ❘ 支倉常長(はせくらつねなが)スペインに向けて渡航

政宗47才の時に造船を命じる。その名を「サン・ファン・バウティスタ号」という。当時の日本の船と比べたら倍ほど大きい。

交易で財力を得るため、そしてスペインとの通商条約を結ぶため、支倉常長を使者に遣わせるが結局交渉は失敗に終わっている。

パンフレットに支倉常長氏の名前が載っていたので補足

1613年から出航。メキシコに寄り一年かけてスペインに到着
国王フェリペ3世に会うが通商条約は結べず
ローマへ行き教皇に会って交渉してもらうよう説得するが失敗
自身もキリシタンになるなど努力も虚しく7年後帰国

フェリペ3世というとあのアゴで有名なハプスブルク家だな!

常長が派遣されてる間に日本ではキリスト教が弾圧されたのよね。
それでもう少し後に島原の乱があるという…パライソ…

政宗が天下取りを狙っていたかも?説のポイント
  • 関ヶ原の戦いが長引くと予想し策を練っていた
  • 娘の夫、忠輝を将軍にしようとした?
  • 忠輝の重臣、大久保長安の財産を軍資金にしようとした?
  • スペインと軍事同盟を結ぼうとした

本気で天下取りの野望があったかどうかはわかりませんが、乱世も終わり徳川家の世になり、政宗の野望は叶わず。今度は伊達家を守るという方向に尽力していくことになります。

 

⑩晩年~徳川家光の時代。死の直前まで美意識を貫く政宗

本拠地仙台に城を構え町づくりに励む。

新田開発を進めたおかげで採れた仙台のお米は江戸にも売られ、当時人口が急激に増えた江戸の人々のお腹を満たしていたのだろうなぁ。

3代将軍家光には慕われ、絶大な信頼を得て「天下の副将軍」と称えられる。これは外様大名としては特別の待遇である。晩年は和歌や漢詩を楽しみながら穏やかに過ごす。

死の直前、病気で寝ていた政宗を見舞いに訪れた家光を迎えるため正装に着替えて対応したとか。また、妻の愛姫や娘には見苦しい姿を見せたくないと面会を断ったとか。

そうして1636年に70年の生涯を閉じたのである。

島原の乱があったのはこの翌年、1637年のこと。

絶対に知っておきたい伊達政宗のエピソード

李克用(りこくよう)に憧れた黒い甲冑。眼帯はフィクション

初めに言ったように政宗が実際に眼帯をしていたという記録はないそう。映画やドラマのイメージが定着した感じですね。もはや眼帯がなければ政宗とわからないほど欠かせない個性となりました。

政宗の肖像画を見るとたいてい両目が書かれてるそうなんですが、これは遺言で「親からもらった体の一部を失うのは親不孝だ。画には必ず両眼書いてくれ」と言ったそう。

そして中国、唐の時代の武将「李克用」に憧れ黒い漆塗りのかっこいい甲冑を着ていた。兜についてる前立の三日月は邪魔にならなかったのか?とつまらぬ心配をしてしまうワタクシ。

多趣味な政宗、和歌や漢詩のほか能楽、香道、茶道にも精通していた

刀ミュのタイトルにもなっている漢詩のほか、和歌や能も嗜んだとか。

能は見るだけではなく自分で太鼓を叩いたり踊ったり、さらには自らの手で役者を育て上げるほどだったそうです。

仕事だけで終わらず趣味にも情熱を注いで夢中になれる姿はやっぱり憧れますね。幼いころ消極的だったとはとても信じがたいくらい。

「ずんだ餅」を発明した?料理が趣味な政宗

政宗と関係のある料理エピソードは多数。能の話もそうでしたが自らプロデュースし、もてなすのが好きな人だったんですね。

このわた(ナマコの腸の塩辛)を自分で作って上様に贈ったり
珍しい食材が手に入ると料理にして上様に贈ったり
朝夕の献立を自ら考えたり

凍り豆腐、仙台味噌、ずんだ餅、伊達巻、と政宗自身が全部最初に作ったわけではなくても少なくとも広めたり普及するのに一役買っている。

筆まめな政宗。意味のない手紙から酔った勢いで書いたものまで

とにかく手紙を自分で書くのが好きで(当時の武将は手紙を書く専門の者に書かせることが多かった)現在でも多数の手紙が残されている。

政宗本人としては酔った勢いで書いたものだから読んだら燃やしてくれ、と記したそうだがその意に反して家臣は政宗様からの手紙を大事に保管。数百年後も全部残されているとは思ってもみなかっただろうなぁ。

雨が降っていて退屈だ、やることがない。
用はないけど手紙を書いてる。
そんな手紙もあったそうだよ

なんだかちょっとかわいらしい一面だね

伊達家の家紋が8つも?

戦国武将が家紋を複数使っていたことすら知らなかった私ですが、中でも政宗は特に多くて8つも使っていたと言われている。

代表的な「竹に雀(仙台笹)」

出典元:Wikipedia

ほかにも一部紹介

九曜がデザインされている政宗の鷹ゆがけ(皮の手袋)、本書の画像を見たのですがめっちゃおしゃれ。

仙台市博物館には伊達家に関する資料が多数展示されているようなので一度は見ておきたいです。

おわりに

名前を知っている程度で詳しくは知らなかった伊達政宗についてとことん調べてみて、彼がどれほど多くの人に愛されてきたのかよくわかりました。

仙台に行って伊達政宗の聖地を見てまわりたい、そう思うほどになりましたね。

伊達政宗の生涯は決して全てがうまくいったわけではなく、むしろ逆境からのスタートだったと思います。それでも素晴らしい人物との出会いにより教養や武術、得られるものは全て身に付け、それは余すことなく自身の輝きとなって生きてきたのだなぁ。

失敗しても何度も挑む力強さ。
好きなものにはとことん追求するオタク気質。
筆まめなコミュニケーション能力。
死ぬ間際まで忘れない美意識。

戦国武将に今まで関心はなかったですが、もしかしたら私の中で初めてお気に入りになった武将のひとりと言えるかも。

さて、この詰め込んだ知識をもって刀ミュ、鶴丸国永 大倶利伽羅 双騎出陣を存分に楽しみたいと思います。

本会場で観劇するのはもう少し先の話。

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